STUDY

2008年4月16日 (水)

海賊船の船長

 海賊船にも船長はいるが、絶対的な権力を持っていたわけではなかった。そりゃそうだよね。海軍や私掠船と同じじゃあ、海賊になる意味がない。もちろん一番いい部屋に陣どり、一番いい食器で食事をし、分け前も多かったが、それは乗組員達が認めた船長だからであって、一旦求心力を失えばリコールもあり、下手をすれば無人島に置き去り(!)なんてのもあり、である。船長が命令権を発揮するのは戦闘、獲物の追跡、敵との遭遇等の言わば戦術関係と捕虜の処遇に限られていたんだって。

 つぎに偉い(笑)のが操舵長。もちろん舵を取るのだが、その他に食料や戦利品の分配、苦情処理を引き受けた。実際の権限は船長より上だったりして(笑)。
 後は乗組員を取り纏める甲板長と一般船員が最小限の役職区分で、その他特別な技能のある者(例えば医者とか楽士とか砲術に長けているとか)はそれなりの処遇を受けた。
 甲板長は古参の乗組員が選ばれたんだろうけど、古参っていくつぐらいを想像する? 映画なんかでは老海賊が出てくるけど、実際にはいなかったらしい。まず、戦闘、事故、病気(とくに壊血病)、遭難が日常なので、高齢まで生き残るのが至難の技。たとえ生きのびたとしてもハードな海賊稼業は高齢ではこなせなかった。というわけで、海賊の平均年齢は25才ぐらい。30を過ぎたら立派な中年だったんだって(笑)。

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2008年3月30日 (日)

海賊志願

16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパはよるとさわると(笑)戦争をしていた。内戦もあれば国際間の戦争もあるが、国同士の戦いについて言えば、海軍力の勝負だった。
というわけで各国は国の威信をかけて海軍力の充実に努めた……のだが、その水夫の調達方法たるや募集の名を借りた拉致、あるいは甘言で釣る詐欺である。いずれにしても船に連れ込まれたらアウト! 戦争が終わるまで降りることはできない。
狭く不衛生な環境、粗末な食事、重労働、病気や怪我の危険(障害が残っても、もちろん補償はない)。加えて上官命令には絶対服従等の規則があり、なかなかにサディスティックな上官も多かったようでまさにこの世の地獄だったらしい。
そして、運よく終戦まで生き残った者を待っているのはお払い箱→失業。仕事などほとんどなかった。怒りと恨みを胸に抱いてカリブ海へ向かい、海賊になった者が出てきたのは、まー必然だね。

船は海軍だけでなく、戦争になると活発に活動する私掠船や一般商船があったが、これらの船の乗り心地はひとえに船長次第だった。船長が良ければ待遇も良く、規則も緩やかだが、暴君に当たったら悲惨である。そして、人格が破綻しているような船長って、どうもあまり珍しくなかったようなのだ。私掠船や一般商船の船乗りで船長に恨みを持って海賊に転身した者も多い。一番ポピュラーなのは海賊に襲われたのをきっかけに仲間になるパターン。

こんなわけでカリブの海賊たちは海軍や船長を目の敵にしており、彼らに襲われた船の船長はまず助からなかった。

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2008年3月24日 (月)

今度こそフリバスター(笑)

ところが17世紀後半、イングランドとフランスはスペインと和平条約を結ぶ。イングランドはイスパニョーラ島の領有権を獲得し、フランスはジャマイカ島の一部を割譲されたが、その際スペイン側の条件は海賊の取り締まり強化だった。よほど手を焼いていたんだね(笑)。
イングランドもフランスも、新大陸への足掛かりさえできれば、もう海賊に用はないし、スペインを怒らせてせっかくの領土を取り上げられてはつまらない。さて、どうしたか?
なんと有力そうな海賊を選んで島の総督に据え、自ら取り締まりを行わせたものだ。海賊さんのほうも、ほいほいと総督なんかになっちゃ大海賊の名が廃るのでは、と思うけど、バッカニアってやっぱり半ば飼い馴らされた海賊だったということなんだろうな。

総督のオススメで足を洗い、植民地等へ行った者もいたが、一度味わった海賊稼業はおいそれと止められない(?)という輩にとって選択肢は二つ。一つは場所を変えること。で、インド洋や太平洋へ進出して行った海賊達もいた。
もう一つの選択肢は、捕まれば吊し首を覚悟でカリブ海で稼業を続けるというもので、この場合ターゲットはスペイン船に限らない。まさにアウトロー、誰からも制約を受けず、無差別に船を襲う荒くれ者の集団。つまり、いわゆるカリブの海賊の黄金時代を築き、そのイメージを作り上げた海賊達がこのグループで、彼らをフリバスター(「自由な捕獲者」の意)と呼ぶのだそうだ。

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2008年3月22日 (土)

もう一つの拠点

面白い話の種はなかなか落ちていないので、海賊の続きをしましょうか。確かバッカニアの話だった。ここで普通リンクを張るのだけど、そうはいかないので、必要なら自力で探してください(笑)。カテゴリーのSTUDYを呼び出すといいかもしれない。

トルチュ島のバッカニアの話でした。ここはフランス人が中心だったが、ジャマイカ島にはイングランドのバッカニアの拠点があった。
ジャマイカ島はスペイン領だけど、イングランドが占拠して総督をおいていた。スペインの国力を削ぐものならなんでも歓迎!の総督府は、ポートロイヤルに集まってきた海賊達を黙認どころか奨励する。今までの流れからいえば、当然だよね。
そんなわけで、カリブ海にはトルチュ島とジャマイカ島のポートロイヤルというバッカニアの二大拠点が出来上がった。

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2008年1月14日 (月)

バッカニア誕生

 スペインだけにいい思いをさせては、とヨーロッパ諸国の王や諸侯は新大陸を目指した。でも新大陸の魅力に取り付かれたのはそういう上層の人々や、その私掠免状を得た公認海賊だけではなかった。社会の脱落者、逸脱者たち――つまり本国にとどまっていても先行きの見込みのない失業者や犯罪者見たいな連中も新大陸の富に憧れ、新天地を求めて向かっていった。ところが、行く先で待っているのは奴隷にも等しい年季奉公人という境遇だった。じつはヨーロッパの各国とも少々強引なほどの植民政策を進めていたので、彼らが渡っていったカリブ海の島々には、たいてい既に植民者がいて農場を経営していたっていうわけなんだな。資金のない落伍者たちは、その農場で働くしかなかった。その待遇たるや、死んだほうがましといわれるほどの過酷さだったらしい。
 運良く(?)植民者がいない地域を見つけた者たちもいた。イスパニョーラ島はもともとスペインの植民地だったが、島の総督が東側に植民者を移住させたので、西側は空いていた。そこへフランス人を中心とするヨーロッパの下層民がやってきた。彼らは農耕のかたわら、スペイン人植民者が置いていった家畜を狩って暮らし始め、燻製肉を作って島に寄港する船に売るという仕事を始めた。
 これだけだったら大した悪事はしなかったのだが、彼らを凶暴な海賊に変えたのはイスパニョーラ島の植民地当局だった。つまりスペイン人以外の移住者を追い出すため、島内の家畜の駆除という手に出たのである。生活の糧を奪われた彼らはしかたなく隣のトルチュ島に移り、海賊を働くようになった。すると当局は今度はそれを危険視て取締りを強化し、捕まえた海賊は絞首刑にした。――というわけで、スペインを憎み、スペインの大型船を専ら襲撃する凶悪な海賊バッカニアが誕生した。バッカニアという呼称は「ブカニエ」の英語読みで、ブカンと呼ばれる木製の焼き網で肉を燻していた彼らのことを蔑んでそう呼んでいたことに由来するんだって。

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2008年1月11日 (金)

公認海賊って……

 世界中のどこの海にも、いつの時代にも海賊というものは存在していたようなのだけれど、その中には交易商人が武装して身や積荷を守るために戦うものや、移民のための侵攻も含まれている。それに引き換えカリブ海や大西洋の海賊は犯罪者の集団という意味合いが濃い。いわゆる「海賊」のイメージの元になっている由縁だろう。

 この地域の海賊の発生は、コロンブスの新大陸発見に端を発する。例の「いよー、国が見えたぞ(1492年)」というアレだね。
 コロンブスはマルコ・ポーロの『東方見聞録』やフランス人枢機卿ピエル・ダイイの『イマゴ・ムンディ(世界の姿)』なんていう本を読んで、インディアスの探検を思い立った。インディアスというのは当時のヨーロッパ人がアジアのことを呼んだ名前だ。スペイン王国をスポンサーにして彼は大西洋横断の旅に乗りだし、2ヶ月かかって未知の陸地に到達した。これが実はカリブ海のバハマ諸島で、ついで南北アメリカ大陸にも到達したことはご存知の通り。

 スペイン王国はカリブ海の島々と大陸に本格的に進出した。目的はズバリ!新大陸の富。
 やがて1521年コルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服というかなり強引なかたちで、スペインは莫大な富を手に入れた。さらに1545年にはボリビア高地のポトシで、銀の大鉱脈が発見され、スペイン王国はそれも独占した。
 他のヨーロッパ諸国は焦った。焦ったからといって、スペイン船を襲わせるというのもずいぶんだと思うけど、実際に当時のヨーロッパ諸国は「私掠免状」を発行して海賊行為を奨励しちゃうんだなぁ。これが前回ちょっと触れたプライベーティアと呼ばれる公認海賊で、新大陸から財宝を積んでスペイン本国へ向かう船を襲った。

 最初に大手柄を立てたのはフランスの公認海賊ジャン・フルリという人だそうだ。大西洋はアゾレス諸島付近で、コルテスがスペイン国王カルロス1世に贈呈するために送った3隻の財宝船を襲撃し、そのうち2隻を捕獲した。中身がスゴイよ。黄金と銀のアクセサリ、ハシバミの実ほどの大きさの真珠、ヒスイの小立像、儀式用のコスチューム、モザイクの仮面、羽根のついた頭飾り、3頭の生きたジャガー!!
 この成功に奮い立ったフランスの公認海賊たちは、獲物が来るのを待っていられずカリブ海へと進出した。そのメンバーには北アメリカ大陸の大西洋岸を探検し、ニューヨーク湾を発見したジョヴァンニ・デ・ヴェラツァーノもいた。

 フランス連の次はイングランド王国の海賊たち。有名なフランシス・ドレイクやトマス・キャベンディッシュといったエリザベス女王のプライベーティアもこの時期活躍した。彼らは掠奪のほかに、当時アジアにまで進出したスペインに対抗すべく新航路や未知の陸地を発見する任務も与えられていたみたいだ。このふたりは無事に世界周航を成し遂げて、財宝もたくさん分捕って帰国し、騎士(ナイト)の位を授与されたというから、あはは。

 その他に当時の新興国、オランダ共和国のプライベーティアもいた。ピート・ヘインという人は1628年に31隻の大船団でカリブ海に潜入し、キューバ島の北でスペインの財宝艦隊(!)捕獲に成功。莫大な富を手にしたという。

 いずれにしろこういったプライベーティアは、いわゆる海賊のイメージからはまだ遠い。本物の無法者たちについてはまた次回(笑)。

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2007年2月 2日 (金)

ケルト人は3がお好き

 ケルト人は「3」という数字が好きらしい。それが一番よく現れているのは三人一組の神 (トライアッド) だろう。大陸にもそういう母神が存在していた。ラテン語で「母たち」を意味するマトレスとか、「既婚夫人たち」の意のマトロナエなどと呼ばれたこの母神たちは、水の女神、豊穣の女神の要素が強い。河の名前の源になっていたりする。3女神は別々の存在ではなく、途中で合流し一体となる、いわば三位一体ってわけ。
 他にも一人の中に3つのキャラクターを持つ神は、たくさん出てくる。まずダヌ自身がダグダから生まれた3人のダヌの一人。他の二人は鍛冶の女神と法律の女神だというが、三位一体らしい。ダヌの息子もブリアン、ヨハル、ヨハルヴァという芸術と文学の神々とされるが、エクネという知識と詩歌の神ひとり、ともいわれている。これもきっと三位一体だよね。戦の女神モリガンは、バズヴ 、ヴァハ(ネヴィンという名になっていることもある)と3人組を形成しているが、ややこしいことにさらにヴァハは3つに分裂して、あちこちに登場する。

 アイルランドの国花はシャムロックといって三つ葉の牧草(クローバーみたいなの)だそうだが、これには聖パトリック絡みのエピソードがある。聖パトリックが布教の際に、三位一体を説明するためにシャムロックを使ったというのだ。3枚の葉を示し「ごらんなさい。この3つの葉は、それぞれ父なる神、子イエス・キリスト、聖霊です。別の葉のようですが、一つの茎でつながった、一つのものなのです」なんか言っちゃったかな? でも神話にあれだけ三位一体が出てくるのだから、いまさら説明するまでもなかったんじゃないかなあ。まあ、この逸話が文字として記録されている最も古いものでも、聖パトリックの死後1000年近くたっているそうで、後からこじつけた可能性も高いみたいだけど。

 シャムロックを英語圏の百科事典で調べた人がいて、それによるとコミヤマカタバミ、シロツメクサコメツブツメクサ、ムラサキツメクサ、コメツブウマゴヤシとたくさん出てきてしまうそうだ。結局、一本の茎から3つ葉が出ている植物は何でもシャムロック(笑)。3つの葉をもつ植物をモチーフにした装飾デザインと考える方が良いのかもしれない。でもアイルランドのお土産店のカタログには、シャムロックの押葉をとじこめた栞やキーホルダーの写真が載っているわけで、あれはどのシャムロックなんだろう? 小さくて、トランプのクラブの形にそっくりだったけど。

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2007年1月22日 (月)

5つの種族

 洪水の生き残り、といえば「ドリトル先生と秘密の湖」に出てくるカメもそうだ。あれは美しい話だったな。と、脱線していては進まない。ケルト神話、行きます! 

 洪水に押し流され、一年のあいだ眠り続け、パーホロン一族がやってくるまで波間を漂っていたというフィンタンの証言によれば、アイルランドには全部で5つの種族が次々と入来した。(1)パーホロン (2)ネメズ (3)フィルボルグ (4)トゥアハ・デ・ダナーン (5)ミレー族
 この5種族は、ほとんどが西の国、海の西の方角からやってきた。西の海の彼方には、幸いなる国、死の国があると信じられていたらしい。そういえば、ビトはノアに西の果てにある島へ行けといわれたんだっけ。「西」には無垢で清浄ってイメージがあったのかね。ところが、じゃあ西の方って具体的にどこなの?というと、これがギリシャとかスペインとか言い出すんだな(スペインはともかく、ギリシャは西方なのか?)。
 ケルト人はドンヌという神が死と生を司ると考えていたらしい。人間は「ドンヌの家」と呼ばれるいわば冥府から生まれ、またそこへ帰っていく。そして、そのドンヌの家はアイルランドの南西の方角にあったと。というわけで南西は大事な意味のある方角だったわけだけれど、もともと島のケルト人は、大陸からスペイン経由でアイルランドへ渡ってきたんじゃなかった? そう思うと、ドンヌの家がケルト人補給路(!)みたいで興ざめだけど、5つの種族が「次々と」入来し、しかも次の種族が来る前に、前にいた人類はほとんど滅びてしまったことになっているのを見ると、さらにアヤシイ。入植の歴史と神話、死生観が混じっちゃってるんだろうか。また各種族共通の敵で、フォモール族というのがある。海を渡って攻めてくる北方の海賊みたいなのだ。フォモールというのは「海の下」という意味だそうで、さしずめ黒い海の底から現れる邪神か怪物か、といったところ。容貌も期待を裏切らず、なかなか凄みのありそなラインナップ。片腕しかないもの、馬頭、牛頭、山羊頭……。首領のバロールは目は二つのうち一つしか使えず、そこから殺人光線を発射するという剣呑な怪物。5つの種族の歴史とフォーモールとの攻防については、フィンタンほどではないが、320年間生きたというバーホロンの生き残り、トァン・マッカラルが語っている。

 一番初めに西の方から海を越えて船でやってきたセラの息子パーホロン一族は、24人の男女だった。ご丁寧なことに、セラという名は「西方」を意味するらしい。ところが5000人まで人が増えたある年、疫病が流行し、一人を残して全滅した。たった一人になったトァンがこの話の生き証人というわけである。彼は岩から岩へ、狼を避ける隠れ家を見つけながら、荒れ果てた島のなかで22年間生きていた。
 ある日、崖の上からほかの種族が上陸してくるのが見えたが、それはトァンの父の弟、アグノマンの息子であるネメズたちだった。トァンは老いて衰弱した姿を見られたくなくて、岩屋のなかに隠れていたが、ある朝目を覚ますと雄鹿に変わっていた(!)。若々しい生気に溢れ、心は喜びでいっぱいになり、勢いよく駆け出して森へ入り、鹿の王となった。あらま。
 ネメズ一族は34艘の船に30人ずつ乗ってやってきたが、航海の途中で飢えや難破でほとんどは死に、上陸できたのは9人。ネメズの他、4人の男と4人の女だけだった。その後何十年かで一族が8060人になったとき、不思議なことに全部が死に絶えた。一方ではフォモール族と戦ったが、30人だけを残して海に呑まれた。その30人は島を去った。
 ここで再び変身! 今度は森の洞穴の前に立っていると急に自分がほかの動物になって若返っているのに気づいたんだって。さて何になったか? 答えはイノシシ。またしても力いっぱい野山を駆け巡り、猪の王になった。
 次にやってきたのが、フィルボルグの一族。フィルボルグというのは「皮を持つ人」という意味で、動物の皮袋の船に乗ってやってきた。彼らは島を5つの部分に分けて、共同生活をしていた。
 さ、また変身だよ。年老いて弱ってくると、洞穴や岩屋ヘこもるんだね。何も食べずにじっとしていると変身が起こるらしい。今度は大きな海鷲になり、空に舞い上がって高みから島全体を眺めた時、次の種族、トゥアハ・デ・ダナーンがやってくるのが見えたんだって。トァンはこの種族だけ「神」と呼んでいる。ダーナ神族は魔の雲に乗って姿を隠してやってきた。雲が消えてフィルボルグたちがその姿を見ることができるようになったときには、既に上陸して砦のなかにいたって言うから、勝ち目がない。たぶんフィルボルグ一族はダーナ神族の支配を受け入れたんだろう。
 ところが! 次にやってきたのが、ビレという地下の神の息子、ミレに率いられたミレー族。36艘の船でやってきた彼らはティルタウンの戦いでダーナ神族に打ち勝った。戦いに敗れたダーナ神族は地下と海の彼方に逃れて、そこに国をつくって住むことにした。
 最後の変身ではトァンは鮭になる。川のなかを自由に泳ぎまわって楽しく暮らしていると、漁師の網にかかってしまった。鮭は統治者であるミレー族のカレルに献上され、料理されて、カレルの妻のお腹に納まった。ところが、鮭はカレルの妻の子宮に入り込み、カレルの息子トァンとなって生まれてきたっていうから、もうびっくり。鮭一匹全部食べちゃったのか、とか、分けて食べたらどうなっていたのか、とか余計なことは考えないように(笑)。

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2007年1月18日 (木)

アイルランド最初の人類?

 さて、ケルト神話である。え、いやいやって感じ(笑)? な~んか、納得がいかないんだよね。ほっとくのも気になるし……。というわけで、面白くない記事になりそな予感。ごめんなさい。

 ケルト神話が純粋な形で伝わりにくいのは、なんといってもケルト人達が文字という文化を重視しなかったせいだろう。『ガリア戦記』によればドルイドはその教えを文字に書くのは良くないと考えていたらしい。カエサルはその理由について、その教えが民衆のなかに持ち込まれることを嫌うことと、学ぶものが文字に頼って記憶力の養成を怠らないようにするため、の二つをあげている。ドルイドは戦闘に参加せず、税金を払うこともない、いわば特権階級だが、簡単になれるわけではない。まずは膨大な教義の詩句を暗唱する必要がある。その他、星座とその運行について、世界と大地の大きさについて、ものごとの本性について、不滅の神々の力と権能について、多くを論じ、教え、その教育には20年もかかることもあったと。ひそかにドルイドの知識がある家系に伝えられていた……なんてことがあれば、一大ファンタジーのネタになりそうだけどね(笑)。
 口頭伝承だけでなく、4世紀ごろにはオガム文字といわれるものもあった。5つの母音と14の子音を点と線で垂直線の上に示す単純な表記法で、遺跡の石碑の銘文などに残っているそうだが、名前や簡単な記録ぐらいで、複雑な表現には向かない。ドルイドの呪文や騎士たちの誓約(ゲッシュ)はこの文字で木の上などに書かれたらしい。
 というわけで、ケルトの神々の姿やその物語については、どうしても他の文化を媒体にすることになる。ローマ人は(カエサルは、というべきかもしれないが)ケルトの神々を、同じような性質を持つローマの神になぞらえ、ローマの神の名で呼んだ。従って、ケルトの神の本当の名前と性格は推測に頼るしかない。
 大陸にいたケルト人のうち、スペイン経由でブリテン諸島やアイルランドの島に渡った部族がいて、これは「大陸のケルト」に対して「島のケルト」と呼び習わされている。大陸のケルトはローマ化され、ブリテン島のケルトはピクト、ジュート、アングル、サクソンなどの民族と混ざり合っていくが、本島と離れたアイルランドの島は、ヴァイキングの襲来はあっても、12世紀の終わりごろまでは外敵の大きな影響を受けなかったため、ケルトの特色がよく保存されているのだという。というわけで、ケルトの神話と言えば、アイリッシュ・ケルトの神話ということになる。その神話にしても、キリスト教を媒体にした形でしか現在に残っていない。「ケルトの渦巻き」の項でちょっと出てきた聖パトリックは、赤枝の騎士ク・ホリンやファーガスをあの世から呼び出して話したり、フィアナ騎士団のオシーンやキィルータとも旅の道連れになり、思い出の話や、川、山、泉、洞窟についての伝説を聞き、弟子に記録させたとか。こんなことしていいの? ローマに知れたら破門にされそうじゃない(笑)。次にやってきた聖コロンバーヌスにいたっては「わがドルイドはキリストなり、神の子なり、キリスト、マリアが子なり、大法王なり、父なり、子なり、精霊なり」って言いきっちゃった。ドルイドとキリストを重ね、アダムをケルトの祖先とするために作った話というのが、ノアの箱舟異聞(笑)。ノアと一緒に箱舟に乗った息子はセム、ハム、ヤフェトだが、ここにもう一人ビトという息子とその娘セゼールが登場する。ビトはノアが船を造っているところへやって来て、自分と娘のためにも船の中に部屋をつくって欲しいと言った。すると、ノアは「この世界の西の果てにある島に行くが良い。大洪水もそこまではとどかないだろうから」と答えた。そこでセゼールは三艘の船を用意し、7年と3ヶ月海を漂った。アイルランドにやっと着いたのは、件の洪水の40日前。たどりついた船は一艘だけ。セゼールと父ビトの他、男2人と女50人(どういう比率だい)がアイルランドの最初の人類となったのだが、ノアの予測も空しく洪水で全滅。たった一人の生き残りフィンタンが5000年も生きて(!)見聞きした古代神話を語ったんだって。
 いくらキリスト教への緩慢な移行措置といっても、ここまで! 無茶するよね。ケルト研究者にとっては、少々曲がっても残っているだけ有難いのだろうけど。

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2007年1月12日 (金)

あ、痛……

 ケルトの神話をどうやってまとめようかな~、などと思いつつ本屋をウロウロ。ケルト関係らしい本を立ち読み。そこで、大ショック!!!
 このブログで、ケルトつながりの枕にゴロワーズのことを書いて、次の「悪しき血(なのか?)」で、「ガリア人が現在のフランス人の直接の祖先であるとは考えにくい」と書いた。確かにガリア人はローマに征服され、フランク人がローマを駆逐した。版図はぱっぱと塗り替えられるが、人や血はそうはいかないというところが盲点である。カエサルはウェルキンゲトリクスを処刑したが、その他の戦士たちは捕虜や奴隷にし、一部は解放した。ましてや女性や子どもはそのままローマの支配の下で暮らしていったのだろう。もちろんなかにはローマ人と(略奪か愛情からかはともかく)結婚する女性もいて混血が進んだだろう。そしてフランク人。これもよく考えれば「ガリアの復活」の項で「一説によれば、旧ローマ領内でのゲルマン人の割合はたった5%だった」って書いているんだよね。これで気がつかないのが阿呆だ。フランク人の中にも家族連れで遠征していた者がいなかったとは言えないが、やはり少数派だろう。おまけに5%である。ローマ化したガリア人は(とくに女性は)生き残っていったに違いない。19世紀の後半になって、フランス人の大部分が多かれ少なかれガリア人の血を受け継いでいることが判明した。――というようなことが、その本には書かれていたのである。割り切れないのは、わたしの記憶が間違っていなければ「フランス人はゴール人(ガリア人)とは直接血がつながっていないんですが、なんか親しみを感じるらしいんですね」と講義したセンセ(笑)がその本の著者だってこと。んもう!

 ただし、19世紀後半といえば、例のナポレオン3世の時代である。ガリアの血云々を少々誇張して宣伝した可能性もある。それまでもノルマン人が入ってきたりしていたのだし、何よりもまずガリア人というのが一つの民族ではなかったんだから。しかしナポちゃんの国家昂揚術(?)は効果抜群。最近まで義務教育の教科書には「わたしたちの祖先はゴール人です」と書いてあり、フランス最初の英雄はヴェルサンジェトリクス(ウェルキンゲトリクスをフランス語読みするとこうなるの)ということになっていた。今は「祖先はゴール人」という記述は消えているらしい。なぜ消えたかについては、19世紀から20世紀にかけて、フランスは一大植民地帝国を築き、マグレブ(リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国のこと)やアフリカやインドシナの旧植民地からの移民を多数受け入れることになったため、通用しなくなった、というのが穏当な説明(笑)。いずれにしても、多民族国家フランスは、フランス人を民族的に捕らえることを放棄したとみえる。すなわちフランス(あるいはフランス領)に住んで、フランス語を話すのがフランス人。

 まあ移民の話はちょっと置いておくとして、 ローマ属州のガリア住民の血がフランス人に流れているとすると、逆に紛れてどうにかなってしまったのが、ゲルマン民族であるフランク人の血ということになる。なんせ5%だからね(しつこい)。Wikipediaによれば「フランク人から21世紀のフランス人へは直接の血統のつながりを見出すことはほとんど不可能」だって。
 ここに非常にデリケートな問題があるようなのだ。現代ではなんとなくゲルマン民族=ドイツ人みたいな認識があるよね。フランス人がガリアがどうのこうのと言うときには、どうも自分たちはゲルマン民族ではないといいたい気分があるらしい。ところが、古代においてフランスの誇る偉大な英雄シャルルマーニュ大帝はカロリング朝の人で、王族だからレッキとした(笑)フランク族だ。問題はここ。「シャルルマーニュ大帝はドイツ人なのか?」 たぶん民族的に言うと○だけど、これは絶対にフランス人に言ってはいけない(言うと友達なくすって)。ヒットラーが「シャルルマーニュはドイツ人」とぶちあげたことがあるそうで、とくにこの辺りは地雷原のようである。大帝はフランスに歴史と業績は残しても、血は残さなかった。のかも。や、フランス人には内緒だよ。

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2006年12月19日 (火)

ケルトの渦巻き

 昨日ヒストリーチャンネルで、「カエサルのガリア征服」という番組を放映していたので見てみたが、ウェルキンゲトリクスは短髪で、顔の左半分に青い模様をつけていた。ヒゲは無精ひげ程度。顔や体に彩色するのはピクト族じゃなかったっけ? うーん、わからなくなってきたけど、とにかくローマ人にとっては、ケルト人(ガリア人)が中央ヨーロッパから戦車と鉄器を引っさげてやってきた、馬術と戦闘を能くする民族だったことは間違いない。基本的には農耕民族であるローマ人には、体格もよく野蛮で好戦的というふうに見えただろう。実際に一対一で戦ったら、ガリア人のほうが有利だったかもしれない。ローマ人はカエサルという将軍の下、知略と統率のとれた軍によって勝ったのだ。
 と言うとガリア人は単なる野蛮な烏合の衆みたいだけど、まあそうばかりでもない。ガリアにはドルイドという一種の知識階級が存在し、民族の知識や知恵の全てを握っていた。カエサルによれば、ガリアには二種類の階級「ドルイド神官」と「騎士」があるだけで、あとの一般庶民はドルイドが定め、王の行う命令に服従していたという。そして騎士のなかから、ドルイド神官の行う儀式によって、王が選ばれる。王は部族の最高権威ではあるが、それを選ぶのはドルイド神官、というわけでドルイドは王よりエライ(笑)。
 その教義は、まず第一に「霊魂不滅」と「転生」だそうだ。ドルイドの信仰は太陽崇拝であり、自然は霊的な力を持つという汎神論的なもの。天体の運行や四季の移り変わりなどの悠久の動きを崇拝し、全ての霊、人間の魂はこの軌道と同じくまわると信じた。

 ハルシュタット文化では、まだギリシアやエトルリアの美術の影響が強かったが、その後スイスの方で興ったラ・テーヌ文化は、ケルト独自の装飾文様を生み出した。複雑な曲線を描く渦巻き模様である。大陸ではローマ化がすすんだが、ブリテン島やアイルランドの島へ渡ったケルトは比較的外敵の影響を受けずに済んだので、その特色が保存された。なかでも、ケルト修道院で製作された装飾写本が有名。

トリスケルといわれる三つ巴の渦巻き サザエの肝を連想しちゃう(笑)黄金の首環(トルク)ワイン注ぎの注ぎ口の装飾 獣面か人面か?『ダロウの書』の動物組紐文様のカーペットページ『ケルズの書』キリストの頭文字XPIリンディスファーンの福音書

 渦巻き文様はどこにでもある模様だし、連続模様もパルメットやアラベスク模様など、世界のあちこちにあるけれど、ケルトの連続模様はなんだかケモノっぽい(笑)。例えば渦巻きなら、水流の渦じゃなくて、巻貝が由来です、みたいな感じ。うねうねとどこまでも続く曲線は植物の蔓というより、蛇か触手を思わせる。下手をすると本当に目がついていたり、動物が隠れていたりする。なんだかね、ガウディを連想しました。ちょいグロな感じが、似てません?
そして何よりもおかしいのがこの模様で飾られているのが、キリスト教の福音書だってことだよね。432年、アイルランドにキリスト教をもたらした聖パトリックは、土着のケルト人社会の信仰とキリスト教の融合をはかりながら布教を進めた。聖パトリックという人はもともとローマ化されたケルトの地主の息子で、ドルイド教にも理解があり、キリスト教にとっては異教である神々を邪神として否定しなかった。ドルイドによって口承されてきた神話や伝説も、キリスト教の福音書や典礼書に混じって手写本の形で残されたらしい。まあでも修道院での写本なんだから、基本は聖書だ。聖書の写本といえば、挿絵にキリスト伝が描かれていたりするのかな、と思うけど、そういうふうに人間の姿をした神や特定の場面を具象的に表現するのはローマ風。ケルト人は、それをそのまま模倣したりはしなかった。彼らは例えば、初めも終わりもなく無限に循環する組紐文様をページいっぱいに描いて(カーペット・ページ)「キリストの復活と永遠」を表現しようとするのである。もしもし、そのなかにはキリスト教では悪魔を表す動物が紛れ込んでいたりもするんですけど(笑)。
 ケルトの連続する渦巻きが変わっているのは、渦と渦の間に双方の回転方向を反転させて繋ぐトランペットパターンという「媒体」がはめ込まれていることだ。渦巻きはこれによって互いに中心をずらしながら、大きくなったり小さくなったりと変化を繰り返す。それは左右対称の安定を拒み、高速の回転を連想させ、眩暈を誘うのである。たぶんそれはドルイドの「霊魂不滅」と「転生」の教義と無縁ではないと思う。

注)ここで一旦話は終わるのですが、引き続きケルトの神話関係の話につながっていきます。よろしければどうぞ。

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2006年12月17日 (日)

ウェルキンゲトリクスにはヒゲはない

 オーストリアのザルツブルグ近郊にハルシュタットという村がある。険しく迫る山岳地帯を背景に、細長いハルシュット湖の畔に開けた風光明媚な土地で、「世界で最も美しい湖畔」と称され、1997年には世界遺産に登録されたところだ。そしてここは同時にケルト人の遺跡が発見された場所でもある。ハルシュタット文明は、紀元前1200年~紀元前450年にハンガリーからフランス中部にかけての中央ヨーロッパに栄えたヨーロッパ初の鉄器文明なのだそうだ。
「ハル」というのはケルト語で「塩」のことなんだって。新石器時代には、ハルシュタットの岩山と湖の下の層からは大量の塩が出ていた。今も深い坑道が岩層の下に残っている。1846年にその採掘所付近を調査していた鉱山の検査員が、偶然埋葬地を発見したのがきっかけで発掘がはじまった。骨壷墓を作っていた埋葬の仕方や、出土品の材質や装飾や図柄から、ケルト人の文明であると考えられている。塩は古来大変貴重なもので、莫大な財産源だ。出土品のなかにはバルト海沿岸の琥珀で飾った短刀や、フェニキアのガラスをはめた青銅の鉢や、黄金や象牙の細工をした装飾品もあった。ということは、ケルト人たちは塩で商業を営んでいたんだね。Coin
紀元前3世紀ごろから金銀銅の鋳造貨幣を導入していて、さまざまな図柄のコインがボヘミアかブリタニアまでの各地で見つかっている。そのなかにウェルキンゲトリクスの肖像と名前入りのものがある。これは同時代人が作ったものだろうから、19世紀のものよりは実物の面影を伝えているかもしれない。見て、見て。ヒゲがないの。よって、このブログにおいては、ウェルキンゲトリクスはガリアの若くて凛々しいプリンス。濾過器になるようなヒゲはなし、ということにいたしましょう(笑)。

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2006年12月15日 (金)

ガリアの復活

 ガリアの王は死んで、ガリアはローマ帝国領になった。ガリアの文化とローマの文化は融合して「ガロ=ローマ文化」などと呼ばれているが、どちらかといえばローマ文化に吸収された感がある。ガリア語(ケルト語)も徐々に消滅した。
 その後、ゲルマン民族が入ってきた。ゲルマン民族の大移動と聞くとものすごい人口がやってきたかのように思うけれど、そして確かにかなりの人数だったのだろうけど、それでもローマ人の方が圧倒的に多い(一説によれば、旧ローマ領内でのゲルマン人の割合はたった5%だった)。帝国は倒したものの、ローマ人の有力者の協力なしにはやっていけないのである。数あるゲルマンの部族が消えていくなかで、フランク王国を建てたクローヴィスが生き残りの為にしたこと、それはアタナシウス派への改宗だった。初めて知ったけれど、ゲルマン民族はキリスト教徒だったんだってね。ただしアリウス派。これはローマでは異端なの。ローマで正統と認められたアタナシウス派に改宗したフランク族だからこそ、ローマ人の支持を受けて台頭することができた。ピピン3世が教皇領を寄進するなど、親ローマ路線に徹した結果、シャルルマーニュ大帝(位795~813)が西ヨーロッパ統一を果たした際に、ローマ教皇からローマ皇帝の冠を授けられた。シャルルマーニュ大帝はローマ人の血を引いているわけでも、フランク王国の首都がローマにあるわけでもないのにね。そしてこれ以来、フランスの代々の君主は文明世界の代表、偉大なローマ帝国の継承者を自認するようになる。当然ドルイド教を信仰していた先住民族のことなど忘却の彼方、だったはずなんだけど?

 どうやら事情が変わってきたのは19世紀のことらしい。考古学の発達によって、ローマ以前のフランスにガリア人の文化があったことが証明されたのである。
 時あたかもウィーン体制後のヨーロッパ。どこの国も絶対主義の王制が揺るぎ、自由主義、民族主義の風が吹いていた。フランスでも7月革命、2月革命を経て、大統領選で登場したのがルイ・ナポレオン。なんでこういう人が大統領選に出てくるのかナゾだけど、まあとにかくみんなそろそろ革命の混乱にも飽きがきていたんでしょう(笑)、すんなり当選しちゃった。7月王政時代に陰謀を企てて失敗して以来イギリスに亡命していたので、誰も彼の事などよく知らない。ただ「あのナポレオンの甥」ということだけで当選したらしい。「全ヨーロッパに君臨していた栄えあるフランス」の幻に一票!ってところ。そして彼自身、そのことをよ~く知っていた。もう人気だけが頼り(笑)。というわけで、資本家のためには国内産業の育成に精を出す。労働者、農民むけには公共慈善事業や社会政策をすすめ、病院や孤児院をつくる、というようにあらゆる階層に媚を売る八方美人ぶり。こういう人気取りが功を奏したのか、1852年には、叔父さんと同じように国民投票によって皇帝に即位し、ナポレオン3世となった。
 ナポレオン3世にとって一番大事なのが、フランスの栄光を国民に意識させること。これが人気の元だからね。1855年と1867年と2回もパリで万国博覧会を開催したのもそのためだろう。叔父のナポレオン1世と同様に、戦争で勝利できれば一番手っ取り早いんだけど、彼にはそういう手腕はないので、世界のあちこちで起きている戦争の勝てそうなほうに軍隊を出したり(笑)、ね。姑息に頑張ります。まあそのためには世界情勢の把握が必要なわけで、その意味ではナポレオン3世という人はなかなか抜け目のない政治家だったのかもしれない。そういえば、幕末の日本へ来て幕府軍に肩入れしていたのが、このころのフランス。徳川慶喜がナポレオン3世から贈られた軍服を着て写っている写真があるらしい。日本についてはナポレオン3世の思惑は外れて、幕府は薩長に負けちゃったけどね。

 そして、(だいぶ脱線したけど)ナポレオン3世が近代フランスの「国家神話」を補強するために採用したのが、「ガリアの英雄ウェルキンゲトリクス」だったのである。彼は国立考古学博物館を設けてガリアの出土品をそこに集め、アレシアの丘には巨大なウェルキンゲトリクス像を建てた。像の台座の帯には、「紀元前1世紀のガリア人と19世紀フランス国民との精神的なつながりをうたう一文」が彫りこまれているそうな。何と彫ってあるのか知りたくてちょっと調べたけどわからない。どなたかご存知なら教えてください。
 実際に古代のガリア人と近代のフランス人に精神的なつながりがあるかどうかは疑問だけど、分裂していたイタリアも統一されてイタリア王国が建設されるなか、今更ローマ帝国の後継者というわけにもいかなかったんでしょうね。どうしても自前のルーツが欲しかったらしい。政治的思惑が、意外とイイトコロをついてしまった(笑)のかも。

 ヨーロッパの文化は、ヘレニズム(古代ギリシア)とヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)の世界観を二本の支柱として完成したと説明されることが多い。自然科学も、論理学も、市民社会も、産業革命も、この二つの哲学の申し子である。不変の真理や絶対的な価値を重んじる文化だ。
 けれどもそこからはみ出ている部分もある。たとえば妖精や魔術の形を取って、主に芸術の分野に入り込んでいるそれは、ガリア(ケルト)に由来すると考えられる。たぶんいわゆるヨーロッパ文化よりも、本能的で直感的、不確定でエネルギッシュ。それが既存の社会に飽き足りなかったり、反発を感じたりする人たちには魅力的に思えるに違いない。例えば『悪しき血』のランボーは、自分をガリア人の子孫だと自認することによって、フランス社会を一歩ひいたところから眺め、揶揄したり、貶めたりしているのである。偽悪趣味のある彼は、その気質を「悪しき血」と表現するが、それは「貴き血」といっているのと同じだと思う。
 フランスは、いまだに自らを「カトリック教会の長女(La Fille Ainee de l'Eglise Catholique)」と称する国だけれど、ときどき顔を出す反骨精神みたいなものが、「ガリア意識」として存在しているのかもしれない。それはしたたかに生きつづけ、フランスの文化を複雑に豊かにしているのだろう。


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2006年12月12日 (火)

ガリアの王

 さて、お待ちかね、ヒーローの登場。その名もウェルキンゲトリクス。舌を咬みそうな名前だけれども「リクス」というのはガリア語で「王」のことなんだって。彼は現在のオーヴェルニュ一帯に居住していたアルウェルニ族の族長だったが、紀元前52年、ガリア王を宣言し全部族に対して決起を呼びかけた。彼の手法はなかなか厳しい。結束を強めるために各部族から人質をとり、命令に従わないものは容赦なく処罰した。そのぐらいしないと、まとまらなかったのかもね。とにかくガリアを統合したウェルキンゲトリクスは、まずケナブム(現在のオルレアン)のローマ人を虐殺し、ローマに対して宣戦布告した。かつてローマ軍の友軍として戦ったこともある彼は、ローマ軍というものを熟知していた。とても正面から戦って勝てる敵ではない。ガリア軍は徹底した焦土作戦とゲリラ戦を展開した。重要拠点を除いて都市や村を焼き払い、食料や家畜も最低限のもの以外は残さない。ローマ軍に物資の補給をさせないためである。

 このガリア総決起に対しカエサルは、冬営中の10個軍団を素早く結集させ、攻撃を開始した。まずケナブムを奪取し、次いでアウァリクム(現在のブールジュ)を制圧、その後アルウェルニ族の領地である南部に迫った。ウェルキンゲトリクスも粘り強く抵抗し、勝利と敗退を繰り返すが、ついにアレシアで包囲された。
 アレシアは(現在のコート=ドールのアリーズ=サント=レーヌではないかと言われている)二本の川に挟まれた丘の上に作られた要塞の都市だった。強襲をかけても損害を出すだけと見たカエサルは、包囲線を築いて敵の消耗を待つ作戦を選択した。ローマ軍というのは、専門の工兵将校を置くほど陣地設営を重視する。この包囲線も土塁を築いたうえに壕を何重にも掘り、逆茂木を並べたり落とし穴を掘ったりと大土木工事だったが、それをおよそ3週間でやり遂げた。ウェルキンゲトリクスは工事を妨害するために何度か騎兵を送り出したが、ことごとく撃退された。
 ウェルキンゲトリクスは解囲軍を要請し、何度か包囲線の突破を図ったが叶わず、食料も尽き、ついに降伏せざるを得なくなった。
 ウェルキンゲトリクスは全ての将兵を集め宣言した。「この戦いは己の栄誉のためではなく、自由のための戦いだった。運命が私に敗北を与えたのならば、それに従うことにしよう。私を殺すか、あるいは生きたままローマ軍へ引き渡すか、諸君らが選択したまえ」
 ガリア人はローマにウェルキンゲトリクスを引き渡すことを選んだ。ウェルキンゲトリクスは族長たちを率いてローマ軍の包囲線の前まで進み出た。族長たちの武器を集めたウェルキンゲトリクスは、自らの武器とともにローマ軍に差し出した。こうしてガリアの王はローマの前に屈したのである。もっともこれについてのプルタルコスの記述はより劇的だそうだ。「ウェルキンゲトリクスは、最上の武具を身にまとい、飾った馬にまたがってアレシアを出た。たった一人でローマ軍の陣地へ入ったウェルキンゲトリクスは、着座するカエサルの周りを馬にまたがったままで悠々と一周した。しかる後、ウェルキンゲトリクスは馬から下り、全ての武具を脱ぎ捨て、カエサルの前に身を投げ出した」

 ル・ピュイ・アン・ヴレーのクロザティエ博物館に、ロワイエという画家の描いた『カエサルに武器を投げ出すウェルキンゲトリクス』という絵がある。あれ、金髪じゃないねえ(笑)。でもどう見てもカエサルよりもウェルキンゲトリクスのほうがかっこよく描かれている。これまたフランス人のガリアびいきの表出だろうか?
 史実としては、ガリア軍と生き残ったアレシアの市民は全て捕虜となり、一部はローマの寛大さを見せつけるため解放され、一部はカエサルの軍団に吸収され、残りは奴隷となった。ウェルキンゲトリクスは、6年間の捕虜生活の後、内乱に勝利したカエサルがローマで行った凱旋式で処刑されたらしい。

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2006年12月10日 (日)

悪しき血(なのか?)

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーの『地獄の一季節(Une Saison en enfer)』のなかに「悪しき血(Mauvais sang)」という詩がある。その冒頭部分は「俺は先祖のガリア人から、淡青色の目と狭い額と不器用な戦い方を受け継いだ。身なりも彼らに劣らず野蛮だ。まあ、バターで髪を固めはしないが」という感じではじまっている。ガリア人というのは現在のフランス辺りに居たケルト人の一派である。呼び方がいろいろなので煩雑だが、もともとケルト人のことをギリシアでは「ケルトイ」、ローマでは「ガリ(ゴール)」と呼んでいたらしい。ユリウス・カエサルは『ガリア戦記』のなかで、彼らのことをガリア人と呼んだ。ガリア人はカエサルに敗れて、その土地はローマの属州となった。ガリアはローマ文明をよく受け入れ、「ローマ化」が最も成功した地域の一つだそうである。その後ゲルマン民族の一派であるフランク人がやってきてフランク王国を建国し、それが分裂してできた西フランク王国がフランスの母体となるので、ガリア人が現在のフランス人の直接の祖先であるとは考えにくい。それでもフランス人はこの先住民族に、どうもある種の親しみを感じるようなのである。
 煙草のゴロワーズもそうだが、もう一例をあげれば『アステリクス』という漫画がある。主人公の豆戦士アステリクスが、ドルイドで妖術を使うパノラミクスや、怪力のオベリクスらの力を借りて、毎回ゲリラ戦法でローマ兵をやっつけることになっている、いわばパロディ版『ガリア戦記』。わたしは他人が持っていたのをちらっと見たことがあるだけだが、なんでも1959年に『ピロト』という若者向けの雑誌に登場して以来衰えぬ人気を誇り、Parc Asterixというテーマパークまである。一説によれば、フランスでディズニーランドが今ひとつ流行らないのはこのせいだとか。

 ランボーは「淡青色の目と狭い額」をガリア人から受け継いだそうだが、ガリア人ってのは一体どんな人たちだったんだろう? (実はランボーという人は写真で見る限りなかなかオトコマエである。もっとも17歳の時のだから、まだまだ少年ぽいけどね) 
 ガリア人について――ガリアのほうには(なにしろ文字で残すということがない文化なので)記録がないが、ギリシア人やローマ人がその様子を書き残したものはある。 
 ギリシアの地理学者で旅行家だったストラボはケルト人にあった印象をいろいろ書き残しているが、それによれば「総じて男性は好戦的で、情熱にかられ、興奮しやすく、論争好きだが、単純で騙されやすく、女性の方は母性型で、多産だった」と。
 シチリア生まれのギリシアの歴史家ディオドロスは、当時フランス一帯に住んでいたガラタイ人(これもケルト人のことなの)の外見について、細かく記述している。「ガラタイ人を見ると恐怖にかられた……みな背が高く、皮膚は白く筋肉が盛り上がっている。髪の毛は金髪だが、それは生まれつきであるだけでなく、人工的に着色するのだ。また髪を何度も石灰水で洗い、額から上へ冠のように持ち上げて、首すじまでたらしている。特別な洗い方のために、馬のたてがみのように太く堅くなって、まるで森のサチュロスかパンの神のように見えるのだ。あごのヒゲを剃っている者もいるが、、ヒゲを生やしているものもいる。貴族たちは頬だけ剃って、鼻の下にはヒゲをたくわえ伸びるままにしておくので、口をすっぽりおおっている。食べるときにはヒゲに食べ物がひっかかったり、飲み物は、まるで濾過器のようにヒゲを通っていく。……はでな刺繍をした肌着をつけ、そのうえに半ズボン(ブラカエ)をはき、マントをはおり、肩でブローチを止めている。このマントは夏には軽く冬には重い布でできており、縞目やチェックの模様が、違う色で細かくついている」
 ははあ、かなり特殊なヘアースタイルのようだ。ここから「バターで髪を固める」っていう話になったんだね。

 ガリア人についてもっとも有名な著作は、ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』である。もともとは元老院への戦況報告の体裁をとっていたらしい。さすがだねローマ帝国、将軍がインテリだ。ただ戦争が強いだけでなく文筆家としても一流っていうから恐れ入る。でまた、もちろん戦記だから戦いの記録が中心だけれど、敵であるガリア人の風俗や信仰のことまでよくもまあというほと細かく観察し、詳しく書かれている。
 その『ガリア戦記』のなかに、アステリクスのモデルとなった人物が出てくる。
 紀元前58年、属州ガリアの総督となったガイウス・ユリウス・カエサルは、ガリア征服に乗り出す。ガリア人の側も、翌紀元前57年からローマ軍とその同盟者への攻撃を開始し、ガリア戦争勃発!ということになるのだが、ガリア人たらチームワークが悪い。カエサルはこれにつけこみ、巧妙な外交で部族間の対立を煽り、内部分裂を引き起こして一部族ずつ撃破していくのである。これは結束が必要だとようやく気付いたガリア人、紀元前54年に一度はローマ軍に打撃を与えることに成功するが、カエサルの圧倒的な強さの前に敗れてしまう。
 ただしここでちょっとカエサルにヤボ用(笑)ができた。本国の情勢がちとヤバクなってきたのであく。カエサルが、第一回三頭政治(なつかしい!)ということで、ローマの政権を握っていた3人の内のひとりだったことはご存知の通り。その3人とは、ローマ一の大富豪クラッスス、ローマ一の将軍ポンペイウス、ローマ一の人気者カエサルという組み合わせ。そう、ガリア戦争以前のカエサルは実力は未知数、財力は無し、ただやたらとみんなに好かれる人だったんだって。それがガリア戦争の戦績で実力を認められ、莫大な戦利品で財産を蓄えた。面白くないのはポンペイウスである。クラッススがパルティア戦争中に戦死すると均衡が崩れ、カエサルはポンペイウスとの関係を修復するため、急遽本国ローマに帰還しなくてはならなくなった。ガリア人にチャンス!? 

 ああ、ごめんなさい。次回は本当にヒーローが出ますから。

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2006年12月 8日 (金)

ゴロワーズをすったことがあるかい

 わたしは自分自身が煙草を吸わないので、禁煙運動が盛んになってもなんの痛痒も感じないけれど、映画や文学や音楽において、煙草という小物は使えなくなってくるんだろうな、と思うと少々惜しい気がするね。なんといっても格好の良い男女が煙草をすう仕草やポーズは絵になる。もちろんそれはあくまでも遠目に見るのが良いので、近場でされると不健康で不経済なだけ、っていう無責任な話なんだけど(笑)。

 かまやつひろしの『ゴロワーズをすったことがあるかい』という歌をご存知だろうか? う~ん、知らない人の方が多そうだなあ。歌うというより語るようなヴォーカルが渋いんだぜ(笑)。

 ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
 ほらジャン・ギャバンがシネマの中ですってるやつさ
 よれよれのレインコートのエリを立てて
 短くなる迄 奴はすうのさ
 そうさ短くなる迄吸わなけりゃダメだ
 短くなるまですえばすうほど
 君はサンジェルマン通りの近くを
 歩いているだろう
 (以下 略)

 ゴロワーズは、ジタンと並びフランス煙草の代名詞ともいえる銘柄だそうである。ヨーロッパ特有の黒煙草(ブリュヌ)のひとつで1910年から販売されている。黒煙草というのは煙草の葉を乾燥させ、更に堆積発酵させたもので、独特の風味があるそうな。現在はアメリカ煙草の人気を受けて普通のブロンドと呼ばれる煙草も発売されているが、ここに出てくるのは正統(?)な両切りのゴロワーズ・カポラルに違いない。強烈に癖があり、熱くて、無骨で……。そもそもGauloiseというのは「ガリア」の形容詞形でガリア人という意味だ。そのパッケージにはガリア人のかぶっていた翼つきの兜がデザインされている。

 もうお察しの通り、ひどく遠いところから枕を振り振り、力技でガリア人(ケルト人)の話に持っていこうというのである。例によってマニアックになりそうなので、お好きな方だけ(笑)。

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2006年9月 6日 (水)

最高神はだれだ?

 道教の神様のなかで一番エライのは(笑)、元始天尊。自然の気を受けて、この世の全ての物事の起こる前に生まれ、その本体は常に不滅で仮に天地がこわれても関係なく常に存在しているという。万物の始めで「道」の根本なんだって。

 ところで、中国の天地創成神話では、はじめ、この宇宙は天と地の区別もなく、つかみどころのない混沌とした、まるで鶏の卵のような状態(?)だったが、その中からちょうど鶏が卵から孵るように盤古(ばんこ)という巨人が生まれ出た。それから一万八千年ほどもかけて、その混沌の中の明るく澄んだものは上の方へ昇り、暗くて濁ったものはだんだん沈み、こうして天と地の区別ができた。その天と地の間で、盤古は1日一丈ずつ背を伸ばしていき、それにつれて天も一丈ずつ高くなり、地は一丈ずつ厚さを増していった。天と地を押し広げていくイメージかな。えっと、一丈が十尺。現在の中国の1尺(市尺)は1/3メートルだけれど、古代中国では18センチだったそうなので、これを採用すると一丈は1.8メートル。で、さらに一万八千年をかけて、天と地は九万里も遠く隔たるようになった。中国の一里は500メートル。はは、まったく計算が合いませーん。ま、細かいことは気にしないことに(笑)。盤古が死ぬと、その死体からいろいろなものが発生した。息は風や雲に、声は雷に、左目は太陽、右目は月に。手足、体躯はそれぞれ各地の高い山岳になり、流れた血は河川に、肉は土となった。髪の毛や髭はたくさんの星に変わり、体毛は草や木に、歯や骨は鉱物や岩石になり、汗は雨となった。別の言い伝えでは、盤古の体は五岳(中国世界の5つの名山)になったともいわれている。すなわち頭は東岳の泰山、腹は中岳の嵩高山、右の臂は南岳の衡山、左の臂は北岳の恆山、足は西岳の崋山という具合。
 この盤古氏が道教に取り入れられて元始天王という神格となった。元始天尊と元始天王、どちらもこの世で一番初めに生まれ出たということになるが、さあて、ホントの一番はどっちだ?(笑) 二つの神格を同一視することもあるようだが、やはり別の神、なんだろう。元始天王は長い間たった一人で天の中心にある宮殿に住み、天の気や地の泉を飲んでいた。やがて石から流れ出る水の中から人間の形をした太元玉女が生まれ、地の間を遊び歩きながらも天の気を吸い、太元聖母と号した。元始天王は太元玉女と気を通じて玉京山の宮殿に招還し、そこで太元玉女は天皇(てんこう)、扶桑大帝、東王公、西王母を生んだことになっている。もっともこの神様は、現在ではあまり人気がないらしい。

 さて、またしてもところで、だが、道教の元になる道家という思想(哲学)を説きだしたのは老子だといわれている。したがって太上老君(たいじょうろうくん)という神格として崇められているのだが、この老子という人物は実在の人物かどうかもあやしいんだってね。『史記』の「老子伝」によれば、楚の苦県(河南省)に生まれ、名は耳(じ)、姓は李氏といい、周の王室の図書館司書になった。孔子が礼について教えを請うてきたとき、驕り昂る気持ちや多欲をたしなめたと伝えられている。孔子は弟子たちに向かって「老子は竜のような人物で、自分はとても及ばない」と言ったというのだが、これってどういう意味??? 後に周が衰えると図書館司書を辞職した。ある関を通ったときに、そこの関守に何か書いた教えを残してくれと請われ、道徳のことについて述べた上下二篇,五千字あまりの文章を与えて西のほうに立ち去った、とか。老子は160歳以上生きたとも200歳あまりだとも言われ、西のほうへ行ったということだけで、どこで死んだかもわからないことから、老子はインドへ行って釈迦となり、仏教を説いた(!)という老子化胡説まである。道教と仏教を同源のものとするようなこの説が、仏教を押さえるために道教側が説いたものか、はたまた仏教側が中国の人々に受け入れてもらうために使った方便なのかは不明であるが、念の入ったことに、太上老君がこの世に下った経緯というのもある。『歴世真仙体道通鑑後集(れきせいしんせんたいどうつがんこうしゅう)』巻一に、太上老君は太陽の精、九竜にのって下り、母の胎内に入った。そこで81年間を過ごし、殷の武丁王9年2月15日に李(すもも)の樹にのぼった母の左腋から生まれた(?)。生まれてすぐに9歩あるいたが、一歩ごとに蓮花が咲いた。9歩目に左手で天を、右手で地を指し、「天上地下唯我独尊。我まさに無上の道法を開楊し、あまねく一切の動植衆生を済度し、あまねく十方と幽牢の地獄をめぐって、いまだ済度されざるものを済度せん」と言ったと書いてあるそうな。(どう見ても釈迦の誕生譚の……だよね)
 太上老君は2世紀の半ばから神として祀られ、4、5世紀には道教の最高神として扱われていた。7世紀ごろになって元始天尊が最高神となってからも別格扱いされているらしい。

 道教の最高神候補は、まだある。玉皇上帝(ぎょっこうじょうてい)は、現在台湾や東南アジア在住の華人たちの間では最高神と考えられ、元始天尊と同一神と見られたり、天の神である昊天上帝と呼ぶ人さえあるのだそうだ。この神の信仰が盛んになったのは11世紀、北宋の真宗(968~1022)が強く信仰したせいらしい。玉皇上帝が人々に慕われた理由は、その任務にもある。中国人の各家庭には竈神(そうしん=かまどの神)というものがいて、その家の人々の暮らしをつぶさに観察している。年末になると詳細な報告書をそれぞれの上級神に提出するのだが、その報告書が最終的に集まるのが玉皇上帝のもとなのである。玉皇上帝は報告書を検討して一人一人の人間の善行と悪行をチェック、善行が多ければ翌年に幸福を授け、悪行が多ければ災いを科すというのである。かくも実利的な神様なので、道士はやはり元始天尊を信仰するだろうが、一般庶民にはとても人気が高い。台所のかまどの近くや神棚に竈神爺の絵像(本で見たのはなかなかオトコマエだった)を貼って祀り、玉皇上帝に悪いことは伝えないよう願うのである。

 こうしてみると、道教というのは懐の深い(ちと深すぎるかも)宗教のようだ。その基礎はアニミズム(全てのものに霊が宿っているという考え方――汎神論)的なさまざまな思想や信仰である。そこへ孔子の説いた儒教、儒家に反対する道家の思想、易の考え、陰陽説、五行説、占星術、医学などの要素が入り混じり、仏教に学んだところも多い。何でも呑み込んで、道教的な味付けを施してしまうみたいな感じ。そして、庶民はその中から自分たちの目的に適うご利益のある神様を選んで家に祀ったり、廟にお参りにいったりしている。おおらかなものだ。

 まだまだ道教の神仙はたくさんおられるけれど、調べ始めたらきりがないので、今回はこれにて終了。長々のお付き合い、お疲れ様でした。

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2006年8月24日 (木)

四遊記(4)

 更新が滞りがちなせいもあって、いつまでもこの仙人話から抜けられない(笑)。そろそろ飽きるか、呆れられていることと思いますが、乗りかかったフネ(泥舟か)ですので、もう少しだけ。

「北遊記」と同じく余象斗が書いた「南遊記」は、別名「全像五顕霊官大帝華光天王伝」または「全像華光天王南遊志伝」。辛未年の刊行ということなので、1571年か1631年の成立と言われている。主人公は、三眼を持つ南方の火神と言われる華光。
 もとは仏のそばに仕える妙吉祥童子。これが腕白で殺戒をおかし、罪をつぐなうために馬耳大王の子供、霊光として生まれ変わらされる。のちに天界につかえて華光と名乗ることになるが、今度は天界でおおあばれして、天界のおたずねものになってしまう。
 地上界に逃げた華光は、師から「いずれかの家の子として生まれ変わり、おとなしく過ごしていれば、いつかは玉帝の怒りもとけるであろう。」といわれ、簫長者の五男、顕徳として生まれ変わる。ところが母親の吉芝陀聖母は、実は人食い妖怪だった(え?)。吉芝陀聖母は人食いの罪を戒められ地獄に堕ちるが、ここは健気な顕徳、母親の正体を知りつつ策を弄して地獄から救い出す。さらに吉芝陀聖母の人を喰いたい欲望をなんとか治してやりたいと考えていると、仙桃を食せば治るという話を聞き込む。仙桃というのは、以前、孫悟空が盗んで大騒動の原因になった天界の桃である。これはやはり盗み出すしかない(!)。華光はなんと孫悟空にばけてことに及ぶのである。あーらら。母は助かったが、怒ったのは罪を着せられた孫悟空。華光の犯行はたちまちばれて、孫悟空と対決することになる、って無茶苦茶な話だなあ。
 結局、華光は孫悟空に殺されてしまう。すると華光の師があらわれて、「悟空どの、どうか弟子を生き返らせてください」と頼む。孫悟空はすなおに願いを聞き入れて、華光を生き返らせ、弟分にする。華光は再び如来の弟子に戻って、めでたし、めでたし。――というようなストーリーであるらしい。


 華光は元明代に中国で盛んに信仰され、仏教からは華光菩薩(けこうぼさつ)、道教からは五顕霊官(ごけんれいかん)・馬元帥として尊崇された神なのだそうだ。その姿は三眼で無髯、手にはその宝物である金磚という武器を持ち、財神として知られている。だが、華光の信仰は、清代に入ってから衰えていいき、非常に信仰が盛んだった杭州でも、現在廟はほとんど残っていないとか。 道教で、ともに四大元帥の一角を占め、財神という職能も一致する関帝(関羽――三国時代の武将。こんな人も神仙として数えられるのが、道教のおもしろいところだよね)と混同されていることもあるんだって。不憫な……。

「四遊記」は神魔小説と呼ばれるジャンルに入る。中国的民俗信仰に由来する三教(仏教・道教・儒教)合立に基づく、神や魔物を扱った小説ということになろうか。その三教のなかで、やはり仏教が一番強いようだ。唐三蔵取経をテーマとする『西遊記』も仏道を尊ぶものであるが、他の三作品でも、神仙たちのドタバタ(笑)を最終的に治めるのは、仏教系のキャラクター(?)であることが多い。棲み分けというか、役割分担というのか(苦笑)。

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2006年8月19日 (土)

四遊記(3)

 道教の神様の中で一番に数えられるのが、元始天尊。万物の始めであり、道の根本なのだそうである。玄天上帝はこの元始天尊の化身もしくは分身といわれている。彼は太陽の精気を受けて浄楽王国の善勝夫人の胎内に宿り、14ヶ月で誕生した。10才で経典をすべて理解し出家を願ったが、父親が許さなかったので、15才で家を出て修行に入った。そして玉清聖祖紫虚元君という仙人に出会い、その指示に従って湖北省の太和山という場所で42年間修行に励んだ。修行が成就したのを見た玉帝は、彼を天上界に呼び寄せたっていうんだけど、元始天尊の分身なのに42年間も修行するとは、なんとも謙虚だこと(笑)。
 さて、殷の紂王(ちゅうおう ?~前1027頃)の時代、鬼神が民衆を傷つけ苦しめるという事件が起こったので、元始天尊は鬼神の征伐を命じた。命令を受けた彼は裸足のまま、大慌てでザンバラ頭に兜をかぶって戦場に赴いた。その際「六丁六甲」という鬼神退治の神将たちを伴った。激しい戦闘の末、鬼神が巨大な亀と蛇に姿を変えると、彼は足下に踏みつけて退治したのである。戦争に勝利し、天界に凱旋した彼に対して、元始天尊は玄天上帝という称号を与えた。この話から、蛇の巻きついた亀が玄天上帝のシンボルになったんだね。

 ただし「北遊記」では、天界の玉帝が退屈に飽いて西方浄土に行ってみたいと言い出すのがコトの始まり。玉帝は自分の魂を三つに分け、その一つにより西方の王子として地上に転生した。王子は得道するため国を捨て、破戒と転生を繰り返した後に武当山(大和山)で長年修行し、玄天上帝としての神格を得る。ところが分身が地上に下りている間、主人が不在だというので羽を伸ばしたのか(笑)彼の部下の三十六天将はすべて逃げ出して、地上におりて悪鬼となっていた。そこでやおら分身は北方真武大将軍となり、三十六体の魔物を退治することとなるのである。とはいうものの、正体が玉帝の転生なので、困難に陥ってもなんでもありな感じ、なのだそうだ。ともあれ、三十六体の部下をひきつれて凱旋しておわり。


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2006年8月14日 (月)

四遊記(2)

「北遊記」はまたの名を「北方真武玄天上帝出身志伝」或いは「全像北遊記玄帝出身伝」。つまり玄天上帝という神格が天上界に誕生した由来、というような話なわけね。余象斗の手になる四巻二十四話。刊行は壬寅の年ということで、壬寅1571年か1631年の成立だと言われている。
 で、玄天上帝って何者? 脱線するようだけど、ここで中国の天文の話。中国での星座は大きく分けて2つのグループがあり、そのうちのひとつが例の「二十八宿」である(『ふし遊』ファンの皆様、お待たせいたしました――笑)。もうひとつは古代中国の社会身分制度がそのまま反映された250 あまりの星座で、北極星を天の皇帝とし、そこから皇族、官僚、軍隊、庶民…といった星座が配列されている。 天の北極に近いところの星には立派っぽい名前がついているが、そこから遠く離れると、例えば現在のうさぎ座付近は厠だの屎だのというあんまりな名前も見えるという代物である。今回はこちらは関係ないので、二十八宿の話に戻ろう。
 二十八宿は、西洋で言えば「黄道十二宮」のようなもの。黄道十二宮は太陽の通り道(黄道)に沿った星域を12の星座に区切ったものだが、二十八宿は月の通り道(白道)に沿った星域を28分割してある。月は約27.3日かけて満ち欠けとともに空を一周するので、空を28分割しておけば月は1日に1宿移動することになる。いや、ほんとは27に分けた方が良かったのかもしれないが、4の倍数である必要があった。というのも、二十八宿は7つずつに分けられ、それぞれに方位とその守り神である四神(東――青龍、北――玄武、西――白虎、南――朱雀)が割り当てられたからである。
 この青龍・玄武・白虎・朱雀は四獣とも呼ばれる神獣である。宋の時代になって、北からの異民族との攻防が激しくなってきたことから、北方を守護する玄武だけが神格化し、玄天上帝となったらしい。
 ちなみに二十八宿は以下の通り。

東――青龍――春
角(かく)すぼし
亢(こう)あみぼし
 (てい)ともぼし
房(ぼう)そいぼし
心(しん)なかごぼし
尾(び)あしたれぼし
箕(き)みぼし
北――玄武――冬
斗(と)ひつきぼし
牛(ぎゅう)いなみぼし
女(じょ)うるきぼし
虚(きょ)とみてぼし
危(き)うみやめぼし
室(しつ)はついぼし
壁(へき)なまめぼし
西――白虎――秋
奎(けい)とかきぼし
婁(ろうたたらぼし
胃(い)こきえぼし
昴(ぼう)すばるぼし
畢(ひつ)あめふりぼし
觜(し)とろきぼし
参(さん)からすきぼし
南――朱雀――夏
井(い)ちちりぼし
鬼(き)たまほめぼし
柳(りゅう)ぬりこぼし
星(せい)ほとほりぼし
張(ちょう)ちりこぼし
翼(よく)たすきぼし
軫(しん)みつかけぼし

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2006年8月10日 (木)

四遊記(1)

 TVなどでコミカルに描かれることが多いので少々違和感があるが、『西遊記』でお馴染みの孫悟空も道教の神仙である。その名も斉天大聖(せいてんたいせい)。邪悪や悪霊退治に絶大な法力を発する人気の神様で、祀られている廟からその小像を借りて自宅に一定期間奉安し、加護を願う習慣が今でもあるらしい。孫行者悟空というと、少しありがたい感じがするかな。廟には貸出し用の孫行者の小さな像がずらっと並んでいたりするのだとか。

 ところで、孫悟空の出てくるのは『西遊記』だけど、この他に『東遊記』『南遊記』『北遊記』があって、全部で『四遊記』になっているって知ってました? 田中芳樹の『創竜伝』に書いてあったというが、わたしは見逃していたらしい。いやいや、びっくり。では例によって、びっくりした人だけ、どうぞ(笑)。

『四遊記』に収められた小説は、だいたい明の時代に書かれたものらしい。そのうちの『東遊記』が我らが八仙の(笑)活躍する話なのである。撰者は呉元泰、二巻五十六話。別名を「全像東遊記上洞八仙伝」または「新刻八仙出処東遊記」というのだそうだ。
 お話は前半は李鉄拐を皮切りに、おのおのが仙人としての道を得る過程が描かれ、後半は「八仙過海」と呼ばれるエピソードが展開される。
 
  ある年の三月三日、八仙たちは王母娘娘(西王母)の招きを受け、瑶池の蟠桃会に出かけた。三月三日というのは西王母の誕生日だといわれているから、まあお誕生会(笑)だったわけね。その帰り、気持ちよく酔っぱらった八仙たちは、ふらふらしながらも雲に乗り、東海までやってきた。
「東の海は果てなく広く、時折、蜃気楼(しんきろう)が見えるという。皆で東遊してみてはどうだろう」という呂洞賓の発案で、近いうちに龍華会(仙人の集まり)があるから、それに間に合うように東海を各自の持つ物で波に乗って渡っていこうということになった。
  李鉄拐が杖を波間に投げ捨ててその上に飛び乗ると、杖は波を切り裂く龍舟に変わり、逆巻く波を越えて走り出した。漢鐘離は太鼓を浮かべてその上にあぐらをかいて渡った。張果老は、もちろん例のロバで。韓湘子が笛を吹くと、波の仙女たちがその音を聴いて酔ったようになり、一筋の道を開け、韓湘子を取り囲んでヒラヒラと舞い始めた。何仙姑は持っていた花籠から、崑崙山で摘んだ色とりどりの珍しい花を龍女、蝦女、鯉女たちの髪に挿してやった。龍女たちは、お礼に花駕籠で何仙姑を渡してくれた。呂洞賓は、腰から黄金色の宝のヒョウタンを取り、ふたを開けて左右に振った。すると、一筋の煙が出てきて、たちまち色鮮やかな彩雲となったので、呂洞賓はそれに乗った。 曹国舅は竹板(楽器)を鳴らして民謡を歌った。すると亀の大臣たちが、大喜び。曲にあわせて頭を揺りながら、曹国舅を背に乗せて進んでいった。
 さて、問題は藍采和である。拍板に乗って海を渡り始めたが、海面に光るその拍板に目が眩んだのが東海竜王の太子、摩掲(まけい)。いきなり海底から現れ奪い取ってしまった。
 八仙を怒らすと危ない(笑)。鉄拐と洞賓が火を吹く瓢箪で海を焼き、鐘離が払子で海水を吸い取ると東海は一面の荒野となりはてた。こうして八仙は拍板を取り返したが、散々な目にあった東海竜王は弟の南海竜王・西海竜王・北海竜王の助けを求めて反撃に出た。すると八仙ったら過激、今度は東海を泰山(たいざん)で埋め尽くしちゃった。
 これは適わないというので、竜王側は争いの原因を隠し、「急に八仙人が竜宮城に攻めてきた」と玉帝に訴えた。怒った玉帝は関雲長(かんうんちょう)、趙子竜(ちょうしりゅう)、馬超(ばちょう)――みんな三国志の英雄だね――を元帥として六十万の天兵を派遣した。そこで八仙も斉天大聖(孫悟空)を味方にして一大決戦となるところだったのだが、観音菩薩や温元師(温瓊)、関元師(関羽/関雲長)の仲介により天界の誤解がとけ、調停によって双方納得し一件落着となる。
 中国では「八仙過海、各顕神通(八仙海を過ぐるに各(おのおの)神通を顕わす)」という言葉があり、これは「おのおのが自分の得意分野で全力を尽くす」という意味の諺としてよく使われているんだって。

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2006年7月31日 (月)

中国の歴史(悲鳴)!

 中国の歴史は日本史との絡みで断片的にはわかるのだけれど、通して見たことが無いらしいことが判明。わたしは世界史の授業中に何をやっていたんだろう? というより、全く聞いた覚えがないぞ。
 中国の歴代の王朝を「もしもしカメよ、カメさんよ」にあわせて、
   殷 周 秦 漢 三国 晋
   南北朝 隋 唐 五代 
   宋 元 明 清 中華民国 中華人民共和国
と覚えるのは、田中芳樹氏の「創竜伝」で習った(笑)。それでも、例えば「晋」といっても春秋戦国時代のと東晋と西晋と……といくつもあるなど、一筋縄ではいかない。

 道教は二世紀頃成立した太平道と五斗米道が始まりといわれており、どちらも治病のための呪術が中心だった。太平道派は三国志で有名な黄巾の乱(一八四)を起こして中絶したが、五斗米派はのちに天師道と改め、現在は正一教として存続している。
 五世紀に北魏の寇謙之が開いた新天師道により、道教は大成されて初の国家宗教となった。この頃から神仙思想を中心に、神々の系列や修行の段階、国家儀礼や経典なども整えられた。
 唐時代には、道教の聖典である道徳経を説いた老子と王室の姓が同じ“李”だったことから(う、そんなことで?)道教は厚遇され、道教の教祖は老子であるといわれるようになった。次の宋時代でも何人かの皇帝により道教は保護された。
 金の時代には、社会は混乱期を迎え、道教も内部から改革の気運が高まり、全真教・真大道教・太一教が成立。元の時代には浄明忠孝道が成立したが、明・清の時代になると、道教は国家の厳しい統制下におかれて伝統を維持するだけになっていった。
 道教は戦前から迷信だとインテリからひどく攻撃され、中華人民共和国成立後は、道観(道教の寺院)の大部分が一般に開放させられ、布教も禁止されるなど、一時は存続を危ぶまれた。が、その後、中国政府は対宗教政策を転換し、由緒ある道観の保護・修復に着手した。現在、宗派は全真教と正一教(天師道)の二派だけになってしまったが、多くの人の根強い信仰を受けて、復興してきているとのこと。

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2006年7月29日 (土)

中国の仙人5

《韓湘子》
 唐の時代の文豪、韓退之の外甥。青年時代には酒ばかり飲んでいる放蕩者だった。二十歳のころ突然行方不明になったが、しばらくして帰ってきた。みると、ぼろを身につけ、行ないも普通でない。韓退之は学問をするように勧めたけれども、私のやってきたことは、伯父さんのしていることとはちがう、といってきかない。そして、できることは草の花をすぐ咲かせることだという。やらせてみると、盆に土をもり、牡丹をうえるとすぐに花が咲き、花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」の一句が記されている。きくといずれわかるという。その年、憲宗が仏骨を宮中に迎えようとしたのに反対した韓退之は、帝の怒りにふれて広東省の潮州に流された。たまたま藍関にさしかかったときは大雪で、一歩も進めない。と、そこに現われたのが韓湘子。さきの牡丹の花びらに現われた一句を悟った退之がきくと、韓湘子は、自分の先生は洪涯先生だと告げた。 洪涯先生というのは三皇時代の仙人と書いてあるのを見つけたが、またしても全く年代があいませんな(笑)。法器は笛。

《曹国舅》
 曹国舅は宋の曹太后の弟だった。下の弟が姉の権勢をかさにきて、無法なことで人びとを苦しめたり、人を殺したりするのをしきりに諌めたが、弟は一向にきき入れないので、ついに山中に隠遁し、修行に明け暮れていた。それをみた鍾離権と呂洞賓がやってきて、お前は修養しているそうだが、一体なにを養っているのかときく。曹国舅が道を養っていると答えると、道を養うとはいうものの、その道はどこにあると思っているのかと、笑いながら問い返す。国舅が黙って天を指すと、それでは天はどこにあるのかとたたみかける。国舅が自分の心を指すと、二人は大笑いに笑って、心はすなわち天、天はすなわち道というわけだな。お前はすでに自分で本来の面目を自得しているといい、還真の秘旨を授けたうえに神仙の仲間に加えたと「神仙通鑑」に書いてあるそうな。 法器は雲陽板というカスタネットに似た楽器。

 八人の仙人を紹介したものの、なんだか判然としない……ですよね。だから、これに踏み込むと大変なことになりそうなネタ、なんだなあ。道教って一体どんなもので、仙人はそのなかでどういう位置づけになっているのかなどなど、きりなく疑問はあるのだけど……あの、これ、面白いんでしょうか?

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2006年7月28日 (金)

中国の仙人4

《藍采和》 
 唐代の人で、字は養素。いつも破れた藍色の長衫(ちょうさん)に約10センチメートル幅の黒い木の皮を腰帯代りにまき、片足にだけ靴をはいていた。夏は綿入れをきるのに、冬は雪のなかに寝ても身体から湯気がでていた。いつも、手に約一メートルぐらいの長さの大きな拍板(びんざさら)をもち、歌いながら街を歩いて食をもらっており、一見狂人のようだったが、彼がときどき歌う歌のなかには仙道の意味がこめられていた。
 その歌をきいてかれに銭を与える人びともいたが、かれはもらった銭は縄に通して曳きずりながら歩き回り、縄が切れて銭が落ちても平気だった。ときには、その銭を貧乏な人にやったり、いつも出入りしていた酒家の人びとに贈ったりしていた。そのうえ、かれはいつまでたっても少しも年をとらなかった。 ある日、酒屋で飲んでいると、どこからともなく笙の音が聞こえてきた。それを聞くと突然立ちあがり、舞い下りてきた白い鶴にのって上天した。そのとき、靴、帯、長衫、拍板などを投げ下ろしたが、かれの姿が雲のなかに消えると同時に、それらも消えうせてしまったという。 法器は花籃(花かご)。


《何仙姑》
 名は瓊(けい)。一般的には八仙中、唯一の女仙といわれている。なぜ「一般的」ってつくかといえば、たぶん上で紹介した藍采和には、実は女性だという説があるからだと思う。広東省増城市の何泰(かしん)の娘で、誕生したとき六本の細い髪の毛が頭に生えていた。十四、五歳になったとき、夢に出てきた神人が、雲母の粉をたべると身体が軽くなり不死となると教えてくれた。あまりにはっきりした夢だったので、ためしにたべているうちに本当に身体が軽くなった。そのうち、辟穀(へきこく)を始め、ことばも一般人とはちがってきた。辟穀というのは、五穀を食べないようにする仙人の養生術のひとつである。これを耳にした則天武后が召しだしたが、かの女は都にいく途中で突然姿が見えなくなった。中宋の景竜年間(707-710)に、かの女が白昼天に登っていくのをみた人があったが、のち、750年にかの女が仙女麻姑(まこ)の傍に従って、五色の雲のなかに立っているのがみえたともいわれている。法器は蓮の花。

 麻姑は18ぐらいの絶世の美女の姿で現れる仙女。その爪は長くて、鳥の爪のようだった。兄も王遠という仙人で、蔡経という弟子がいたが、その蔡経があるとき麻姑の爪を見て「あれで背中をかいてもらったら、いい気持ちだろうなあ」と思った途端に、王遠に背中を鞭打たれた。神女に向かって失礼だというわけである。これが「まごの手」の由来だというのは聞いたことがある話だね。

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2006年7月26日 (水)

中国の仙人3

次は師弟コンビ(笑)。

《漢鍾離》
 本名が鐘離権、なのかな? 字は雲房といい、咸陽の人とされている。漢に仕えて左諌議大夫(さかんぎたいふ)にまでなったが、あることで流されて南康軍の知事になった。漢が亡んだのちは晋に仕え、武帝のときにはしばしば兵を率いて戦った。あるときたまたま敗れてひとりで終南山中に逃げこんだが、山中で道に迷い、さまよい歩いているうちに東華帝君の住む洞の前にでた。そこで東華帝君から、おふだ、秘書、金丹の秘訣や悪鬼・悪霊を退治する青竜の剣法など、さまざまな秘文秘法をさずけられて下山した。
 下山後は正陽子と号して、ひたすら神気の修煉に打ち込む一方、多くの霊験をあらわしたが、九世紀の前半には盧山に遊んで呂洞賓にあい、かれに天遁の剣法などの秘儀を伝えて得道させた。その後は、山西省の羊角山中にかくれたまま世俗と交わらないが、たまに世間に姿をみせることもあると「金蓮正宗記」などに記されているそうだ。法器は芭蕉扇で、死者の魂をよみがえらせることができるとか。

 漢鍾離に道を伝えた東華帝君というのは、漢の時代に山東省で生まれ、姓を王、名を玄甫といい、白雲上真の弟子だとされる。号は華陽真人。また別説には、姓は王だが、名前や時代は不明で、老子の道を得て崑崙山にこもり東華帝君と号したが、のちに五台山紫府洞に移ったので東華紫府少陽君ともいう。後漢の頃、終南山で鍾離権に道を伝えたということになっている。これが李鉄拐とどう結びついたのかは不明。崑崙山は西王母の住んでいる所のようだけど。

《呂洞賓》
 山西省の蒲坂永楽鎮出身で、唐の徳宗の貞元十四(798)年四月十四日誕生だという。二十歳のときに科挙の試験をうけるように推薦されたけれども、残念ながら落第。それでも、しばらくして五峯盧山の県知事に任命された。ある日、廬山に遊びにいって鍾離権に出あい、終南山につれていかれて、山中で前後十回に及ぶ試験を課せられた。それを無事パスして、天遁の剣法や龍虎金丹の秘法などを授けられ、純陽子という道士の号も与えられた。