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2006年3月30日 (木)

ムガール帝国で出世した男

 もちろん交易商人はこの一家の同行に難色を示した。しかしギヤーズ・ベーグは、それが私の家族の運命なのだ、といって折れなかった。「もし神が私と私の家族にムガールへ行けというのならば、わたしたちは三人で旅立ち、四人で目的地に着くだろう」って、あーあ、とうとう神がかりになっちゃった。そのぐらい大変な道のりであることは確かだった。中央アジア高原を西から東へと行くのだが、ほとんどが砂漠と岩山を縫う厳しい道である。加えて真っ直ぐに東へは進めない。途中、アフガニスタンの東北部の山脈を避けるためにぐるっと半円を描くようにまわりこみ、カンダハルからカーブルを経て、ハイバル峠を越えてインドに入るのである。カンダハルを出発して3日後、アスマットは女の子を産んだ。ギヤーズ・ベーグはその子ににメフルン・ニサー(純潔の月)という名をつけた。娘の誕生を喜んでこんな響きの美しい名前をつけたものの、あまりの旅の過酷さに一度は娘を置き去りにしようとしたこともあったのだが、とにかくどうにか四人でムガール帝国の首都へ到着した。

 その頃アクバル帝はファテープル・シクリーという新しい都を建設中だった。彼はインドを支配するために、イスラム式を押し付けるのではなくインド式も取り入れる度量と知恵があった。最終的には、イスラムでもヒンドゥーでもない新しい宗教をつくって、インドを統合しようと考えていたという説も出るほど、柔軟な発想の持ち主であったらしい。当然新しい都ファテープル・シクリーに建てられた宮殿やモスクは、木造建築の伝統やインドの気候に根ざしたヒンドゥー様式を取り入れたものになっていた。その宮殿に使える人々も、ペルシア人もいれば、同じぐらいの数のヒンドゥー教徒もいた。

 「ムガールの最初の皇帝バーブル帝はトルコ語を読み書きしていた。2代目のフユマーン帝は、一度はヒンドゥー勢力に追われて、サファビー朝に亡命したこともあり、ペルシア語の読み書きができた。3代目のアクバル帝は何語を読み書きしたか?」
 おかしなことに、アクバル帝は文盲であると世に伝えられている。そんなばかな。英明で、建築や神学にまで深い造詣を持っていたという皇帝が文盲はないでしょう。インドに根を下ろすための政治的配慮ですかね。

 マリク・マスードは宮廷の貴人たちや後宮の女性たちに顔が利いたので、ギヤーズ・ベーグは彼の紹介で王室の官吏に面会し、自分を売り込んだが、先に仕事にありついたのは妻のアスマットだった。この妻はインド行きに同行を申し出、旅にも良く耐え、ギヤーズ・ベーグがメフルン・ニサーを捨てようとしたときには諌めるなど、なかなかの賢婦なのである。ペルシア風の教養を買われた彼女は、アクバル帝の王子を産んで事実上の第一王妃となっているジョド・バーイーの宮殿に出入りを認められた。「功名が辻」の千代さんもそこのけの内助の功である。
 やがてギヤーズ・ベーグにもチャンスがやってきた。アクバル帝の重臣ラージャ・トダル・マルの目にとまったのである。ラージャというのはヒンドゥーの王を表す言葉だ。トダル・マルはもとはインド人でヒンドゥー教徒だった。彼はギヤーズ・ベーグの教養高く、上品なところが気に入って王室事務の仕事につけた。
 ギヤーズ・ベーグはそれからとんとん拍子に出世して、トダル・マルが宰相になる頃には王室事務の長官になり、その十年後にはカーブルの長官に任じられた。大出世である。

 さて、今回は「栄華を誇ったサファビー朝の時代に、富も名声も失ったひとりのペルシア人が、インドへ移り住んで大出世したというお話」だったので、これにて……え? それじゃだめ?
 ホントを言うと、みんなが知ってる有名な話はたぶんギヤーズ・ベーグの孫に当たる女性にまつわるものでしょう。そのためにはまずメフルン・ニサーの話をしなければならない。実は彼女のほうが有名になってもいいほどの重要人物なのだけれど、今日はここまで。

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